* す だ か *

タイトル

3

 光秀の仕事が終わったのは6時過ぎだった。部活終わりに真田幸村が怪我をしたとか言って転がり込んできたのもあって、いつもより遅くなったらしい。
 光秀が保健室を閉めて職員室に挨拶に行くのを待って、駐車場に行く。光秀は女性が乗るような薄い水色の軽自動車の鍵を開けた。光秀は助手席側のドアを指さして、蘭丸に乗るよう促す。ちらりと覗いたが、後部座席は蘭丸の荷物でいっぱいなので、蘭丸はしぶしぶ助手席に乗った。シートベルトを締めてすぐに光秀がエンジンをかけた。
「今日はすみませんでした。まさか遅くなるとは思っていなかったので」
 ちっともすまなさそうに見えない光秀を無視して、蘭丸は外を眺めた。
「お前の家、遠いの」
「いいえ、徒歩でも30分以内ですよ」
「いつも車なのか」
「えぇ、楽ですから。あ、道覚えてくださいよ。あなたは歩きですからね」
 蘭丸は淡々と言う光秀の髪の毛を一房掴んで引っ張った。蘭丸はイラつくと口より先に手が出るタイプなのだ。運転中に髪を引かれた光秀は「危ない危ない」とは言うが、その顔は愉快そうである。
 蘭丸が景色を覚えるのに必死になっていると、マンションに到着した。一般的によく見るマンションで、これといった特徴は無い。駐車場に車を停めて、二人で荷物を引っ張り出した。荷物は二人で持って行ける量だ。蘭丸が荷物を担いで光秀に振り返った。
「何階だ?」
「15階です」
「げ、そんなに上かよ! で、何号室」
「82。1582号室です」
 びくりと蘭丸の身体が強張った。足下から緊張が走る。
 次の瞬間、光秀の口元が歪んだ。
「いやですね、嘘ですよ。このマンションは15階までありませんし、あったとしても82号室まであるわけないでしょう」
 くすくすと笑う光秀。蘭丸は緊張が解け、真っ赤になって光秀を一度蹴った。一瞬でも恐怖を覚えた自分に腹が立った。
「じゃあ何号室なんだよ! さっさと教えろ変態!」
 光秀は車の鍵を閉めて、にっこりと笑った。
「0602号室です」
 そのまま蘭丸を置いてさっさとマンションの入り口に向かっていった。蘭丸が慌てて追うと、光秀はちょうどオートロックのシステムにパスワードを入れたところだった。カチャンと音がして解錠される。光秀は思い出したように
「パスワードも教えなくてはいけませんね」
と言った。
 エレベーターに乗って、光秀が6階のボタンを押す。蘭丸は苦々しく思いながらもそれを見守る。
「本当に6階なのかよ」
 沈黙と再び襲った緊張に耐えきれず、蘭丸は光秀を見た。
「えぇ、素敵でしょう」
 さっき見たのと同じ笑顔で光秀が答えた。
 蘭丸は昔の事を思い出した。生まれるよりも前の事だ。6月2日に、目の前の男がやった事を忘れてなどいない。そりゃあ彼にとっては記念日なのだろうが、その日の事件のおかげでこいつも命を落としたのだ。気持ち悪い、と蘭丸は心の中で吐き捨てた。
「悪趣味な奴」
「なんとでも。着きますよ」
 チン、と小気味のいい音がして扉が開く。外観もそうだったが、中もやはり何の変哲もないマンションだ。サイコな変態が潜んでいるようには見えない。
 0602号室には「明智」と書かれた表札があった。
 光秀はいつも蘭丸には本当の事を言おうとしない。蘭丸は諦めに似た憐れみから、光秀には絶対にあの事件について聞かないようにしている。所詮は今の人生とは関係ないのだから、今さら聞く事でもないというのが本音だ。だから、部屋の番号については考えないようにして、光秀が鍵を開けるのをぼうっと見ていた。
 光秀が扉を開けて、どうぞと言った。蘭丸は再び兆した不安に脚を縛られているような気がしたが、なんとか自身を奮い立たせて部屋に入った。
 ひんやりと空気が冷たい、というのが第一印象。ほんのりと香るのは石鹸の匂いだろうか。なんだ、普通じゃん、と考えてリビングが目に入る。
「なにこれ」
 そこにあるのは白い壁紙と必要最低限の家具だけだった。小さなダイニングテーブルと椅子と棚。強いて上げるとすればゴミ箱と照明、それとカーペット。言っていたようにソファも無ければテレビすら無かった。
「だから言ったでしょう、何もありませんって」
 広いリビングの床に蘭丸の荷物を置いて光秀が言った。蘭丸は急いで隣の部屋を見に行く。よくあるアレだ。来客があるが片付けが面倒で隣の部屋に全て押し込んでいるのでは、と疑ったのだ。しかし、隣の部屋も似たり寄ったりだった。机と椅子とベッドがあって、机上には仕事で使うようなシンプルなノートパソコン。書類もあるが全てきちんとファイル分けされ、ブックエンドに立てかけてある。あまりにも規則正しく並んでいるので、機械的に見えた。端的に言えば生活感が無い、人間味の欠如した空間だ。蘭丸は気持ち悪い、と呟いた。
「ほら、少しでいいから荷物の整理してください。私は夕食を作りますから」
「箪笥は。蘭丸の勉強机も無い。どうやって生活しろって言うんだよ」
 光秀は宙を眺めてから「買わなければなりませんね」と言った。全身から力が抜けた心地がして、蘭丸はリビングに戻って座り込んだ。自分の家から持ち込んだ大きなカバン達が頼もしく見えた。
「あぁ、そうだ。何が食べたいですか」
 カウンターキッチンから顔を覗かせて、光秀が笑った。蘭丸はカバンを抱きしめて、警戒の眼差しを送る。光秀はちっとも気にしていないようで、うっすらと口元を歪めながら返事を待っている。蘭丸は少し逡巡してから、低い声で答えた。
「ハンバーグ」
「分かりました。すぐ作りますね」
 光秀は髪をまとめて料理を始めた。それだけ見れば少しは人間味も感じられるのだが、この部屋ではむしろ異質だ。
 蘭丸はもう一度部屋を見渡した。白い壁と、窓。それが全てで、酷く寒々しい。かろうじて料理の音が聞こえるのが救いだ。こんな所で暮らすのか、と溜め息をついた。しかし、そこでふと光秀の言葉を思い出した。確かに彼は『買わなければ』と言った。それはつまり、この部屋にも家具が増えると言う事だ。居候の身で家具を買ってもらうなんて事は本来なら憚られるが、この部屋を見ているとむしろ奉仕に思えてくる。
「おい光秀、家具はいつ買いに行くんだ」
「え? あぁ、今週末にでも見に行きましょうか」
 玉ねぎを切っていたらしく、涙声が返ってきた。あいつでも玉ねぎには勝てないんだなぁ、と考えて、少し居候生活に希望を見つけた気がした。
「なぁ」
「なんですか」
「暇なんだけど。本当にテレビも無いのかよ」
「無いって言ってるでしょう。宿題でもやってなさい」

 ダイニングテーブルで進めていた宿題が終わった頃、ちょうどよくハンバーグが出来上がった。ハンバーグが食べたいと言ったら本当にハンバーグしか出てこないんじゃないか、と疑っていた蘭丸だったが、ハンバーグ定食の形で食卓に並んだのを見てほっとした。皿にハンバーグとサラダに、ご飯と赤味噌のみそ汁。たくあんも付いている。小鉢にはちょっとした煮物まで作ってあって、どれも美味しそうだ。
「なんだ、普通じゃん」
「あなたさっきから私をなんだと思ってるんですか」
 適当に「へいへい」と受け流して、いただきますと勢いよくハンバーグを割った。肉汁が溢れて食欲をそそる。口に入れると肉の甘みが……
「苦っ! えっ!?」
 蘭丸は自分で言っておいて『苦い』という表現に疑問を持った。ハンバーグが苦いという事実に頭が追いつかなかったのだ。もしかしたら焦げているのかもしれない。そう思いハンバーグを凝視するが焼き目は綺麗な茶色で、異常に黒い部分は見当たらない。助けを求めるように光秀を見るが、平然とハンバーグを頬張っている。蘭丸は一度落ち着いて白米を口に入れた。うん、美味い。そしてみそ汁を啜る。
「……味薄っ!」
 水を飲んでいるかのような味の薄さだ。味噌の色は出ているのに、何がこんなに味を薄めているのか分からない。具は油揚げと豆腐だ。冷静に見れば、この味噌汁には大豆製品しか入っていない。口直しに白米を食べる。次に恐る恐る煮物に箸を付け、そっと戻した。箸で触れて分かった。これは中が煮えていない、と。里芋が妙な硬度で箸の圧力に拒んできたのだ。今までの例から見て食べる気にはならない。白米を食べる。たくあんは市販の物らしく、美味しくいただいた。
「さっきからちっともハンバーグ食べてないじゃないですか。せっかくリクエストに答えて作ったというのに」
 口を尖らせて光秀が言った。さも当然のようにみそ汁を啜り、煮物をつつき、ハンバーグを食している。いや、彼はいつも自炊しているから当然なのだろう。
「お前さ、料理ド下手だな」
 光秀の手が止まり、咀嚼していた物を飲み込んだ。箸を茶碗の上に置き、何か言い返すかと思えば、何も言わずじっと固まっている。
(もしかして、ショックだったのか……)
 光秀は相変わらず能面のような表情だが、何故か今にも泣き出すかもしれないという不安に駆られる。
「あ、そのさ、そうじゃなくて、えっと……。そう! 居候なんだから飯ぐらい蘭丸が作るって言いたかったんだ。ことばの綾って言うか、素直に言えなかったて言うか………」
 蘭丸は自分でも何を言っているのか分からなかった。なにを変態光秀なんかにフォローしているんだ、と自分につっこみを入れた。
 にわかに光秀が箸を持ち直した。蘭丸はびくりと身体を強張らせる。
「でも、それじゃあ満足に部活できませんよ」
 ちょっと俯いて、いかにも不服そうにぼそぼそと言う。あまり見ることのない拗ねた光秀を見て、蘭丸は笑ってやりたかった。しかし、驚きの方が勝って声が出ない。この異様な部屋に住む変態・光秀も、人の子であったのだと証明されたような気がした。誤解していたのかもしれないな、と蘭丸は思う。
「いいよ、別に。どうせ碌な部活ないしな」
 正直光秀の作った料理を完食できる自身は無いし、ちょっとした反省を込めて、食事係になるのも悪くない。
「じゃあ、手伝いだけ」
 自分の料理の評価がまだ腑に落ちないのか、光秀は妥協案を零した。その言い方が子供みたいで、蘭丸は思わず笑ってしまった。