* す だ か *

三つ目の名

三つ目 1

光秀が死んだ。という情報を風の便りで耳にした。
それらしい首は判別がつかぬほど腐ってしまっていたらしく、彼の生死は今も定かでないというのが事実であるが、世間では謀反人明智光秀は正義の豊臣軍に山崎で敗れ、死んだという事になっている。
濃姫は「はぁ」とため息をついた。
あの燃えさかる本能寺で光秀と戦った。光秀は素早く弾をかわしたかと思うと強く濃姫のみぞおちを鎌の柄で殴りつけ、そのまま濃姫の意識が飛んだ。
目を覚ましたのは本能寺が鎮火した後で、おそらく光秀が運んだのだろう。小高い丘の上の木にもたれて眠っていた。そこから安土まで歩き、今は質素な家で一人暮らしていた。
腑に落ちない。と濃姫は思う。
あの光秀が簡単に死ぬとは思えないのだ。
しかし、それは生きていて欲しいと願う気持ちと、自分がこの手で殺すまでは死なせないという憎しみが混じり、期待が予感に変わって生まれた妄想に過ぎないのかもしれない。
ふと縁側に出て流れるような動作で銃を構えた。憎くてたまらない、白い幽霊を思い出しながら・・・。
どのぐらいそうしていたであろう。濃姫は雨が降り出したのに気づき、急いで戸を閉めた。
曇天のせいで今が昼なのか夕方なのかも分からなかったが、小腹が空いてきたのを感じ、食事の用意に取り掛かった。
いつものように着々と食事の準備が進んでいると、ザー・・という雨の音に混じってかすかに戸を叩く音が聞こえた気がした。
濃姫は風が戸を叩いたのだろうと思っていたが、次ははっきりタン、タンと2回戸を叩く音がした。
濃姫を訪ねてくる安土の民は少なくない。
織田が栄えていた頃、安土住む者達は織田信長を神の様に崇め、信仰していた。それ故に今の濃姫を哀れに思い、度々作物などを届けにきてくれるのだ。もちろん濃姫はいつ豊臣に見つかって殺されるかも分からない身であり、匿っていた安土の民も無事では済まないだろうということを濃姫自身よく分かっていた。そのため、この家に近づかないようにと皆に言い聞かせ最近はほとんど来客など無かった。
─まさか・・秀吉に見つかった・・?─
色々な考えが濃姫の頭に浮かび、戸を開けるのを躊躇わせた。 
そうしている内にまたタン、タン、と先ほどより強く叩かれる。
濃姫はすっと息を吸い、戸に近づいた。
「・・・誰?」
なるべく強い口調で、濃姫は戸に向かって言った。
「あぁ、これは奥方。私は通りすがりの僧です。旅の途中で雨に降られて困っていましてね、雨が止むまで雨宿りをさせていただきたいのです」
低く、耳に心地よい声。どこか懐かしい、と濃姫は思う。
罠かもしれないとは思わず濃姫は戸を開けた。早くその僧に会いたいと思った。
「そうでしたか。何もありませんがどうぞお入りください」
僧は笠を被ってはいるものの、全身ぐっしょりと濡れてしまっていた。
肌は白く、唇は不健康そうな紫色。
具合が悪いのかもしれないと思い、慌てて濃姫は着替えになりそうなものを出した。
「申し訳ありません」と言って僧は薄く笑った。
未だに笠を取ろうとしない僧の表情ははっきりと見えない。
薄く笑んだ口は愉快そうにも見えるし、悲しそうにも見える。
濃姫はその曖昧な表情がもどかしくて僧の笠を取り去った。
僧は「あ」と驚いて笠を押さえるような仕草をしたが遅い。
僧は白かった。どこまでも白く、肩で切りそろえられた髪も白かった。
僧なのに何故髪があるのだろうと考える間もなく一人の名が浮かんだ。
「・・・光秀・・・?」
白くて幽霊を連想させた彼は、本当に幽霊になってしまったのだろうか。不安で、不安で、不安で、温もりを確かめようと男の頬に手を添えた。冷たい。それが濡れた事によるものなのかそれとも死した者特有の冷たさなのか、濃姫には分からない。
男はじっと黙ったままで濃姫を見つめていた。
「そうなのね? 光秀、お前なの? そうなら答えて」
─もう一度、『帰蝶』と呼んで。─
濃姫の願いは言葉にならなかった。
男はその願いを知ってか知らずか「奥方」と囁いた。
あぁ。その心に響く低い声は紛れも無く彼だ。
何故呼んでくれないの?そう思い口を開くと男が先に口を動かした。
「紹介が遅れて申し訳ありません。私は南光坊天海という者です。光秀、ではありません」
─知っている。前にこの会話をした。きっと今度は「光秀はもういない」と言うのでしょう?桃丸を消してしまったように─
濃姫は目の前の男が光秀であると確信した。
「また、約束を確かめに来たの?」
男は答えない。
「それなら大丈夫よ。私はまだお前を憎んでる。お前は? まだ生きているの? 私の手によって死ねと約束したでしょう?」
それは決して憎んでいるような声ではなかった。むしろ何年も待ち焦がれた想い人にかけるような優しい声であった。
「生きていますよ」ただ一言。
男はそっと自分の頬に当てられている手を自らの手で包んだ。
その手からはほんの少しだけ温もりを感じられたような気がした。
「光秀。何故ここに来たの? 何故ここに私がいると知っていたの? 何故・・・」
「奥方・・」
駄々をこねる子供に呆れる大人のような口調。それでもいい。子供でも、いい。