三つ目の名
二つ目 1
尾張の地では帰蝶は濃姫と呼ばれた。
尾張へ嫁いでから織田は勢力を増し、忙しい毎日が続いていた。
濃姫はその日、客間へと足を運んだ。
新しく織田家の家臣となる男が来たと聞いたからだ。
なにしろその男は濃姫の故郷と同じ地からやってきた者らしく、興味もある。名は明智光秀というらしい。
思えば嫁いで以来一度も故郷へ帰っていない。
置いてきてしまった弟分のような存在の彼はどうしているだろう。などと故郷を思い出しながら襖を開けた。
どきっ。と心臓が大きく音を鳴らした。
濃姫の目映ったのは真っ白な青年だった。
白く、男にしては細い体から彼女は青年から幽霊を連想した。
そこからわっと故郷の思い出が一気によみがえり、あの少年も白だった。と考えた。
「お久しぶりです。帰蝶」
どきっ。とまた心臓が鳴った。
「お前・・・桃丸?」
にこりと青年は笑った。
「今は明智の名を継ぎ、明智光秀と名乗っています」
「お前が・・・」
濃姫は困惑した。昔の彼とは全く雰囲気が違うからだ。
昔の彼はもっとおどおどとしていて頼りなく、自分の後ろに隠れてばかりで幼く、可愛らしかった。
それがどうだろう。不敵な笑みを浮かべ、どこか近寄りがたい不気味な青年になっている。
「お変わりありませんか?」
低く落ち着いた声。あぁ。いつから彼は変わってしまったのだろう。
困惑していた濃姫は何とか「えぇ」とだけ答えた。
「帰蝶。約束、覚えておいでですか?」
濃姫はしばらく考えてから思い出した。
それは美濃の地での、帰蝶としての最後の思い出。
『うつけに嫁いでも、後悔しないと約束してください』
「えぇ。大丈夫。後悔などしていないわ」
その言葉には一欠けらの嘘もなかった。
しかし光秀は小首を傾げ「本当に?」と言って哂った。
「貴女は確かに後悔はしていない。しかし、幸せ、でもないでしょう?」
言い返そうとして吸い込んだ息は何も言葉にならなかった。
「あ」と喘いで「戦乱の世に幸せなどあるものか」と、やっと言い返した。
光秀は一度にたりと哂うと「それもそうですね」と言った。
目の前の青年のあまりの変化に濃姫は
「本当に桃丸?」と、もう一度尋ねた。
困ったような小ばかにしたような表情で
「明智光秀です」と答える。
「桃丸だったのでしょう?」
少し声を大きくする。
「桃丸なんてもういませんよ」
「それでもお前の幼名は桃丸なのでしょう!? 約束を確かめたいのは桃丸でしょう!?」
「帰蝶」
ポン。と濃姫の肩に骨ばった手が置かれる。
取り乱していた濃姫はそれで少し落ち着きを取り戻した。
「帰蝶。桃丸なんていませんよ。私は私。明智光秀です。約束を確かめたかったのは桃丸ですが、彼は確かめる前に消えました。
私はその意志を引継ぎ、代わりに確かめただけです」
「分からないわ。それでもお前が桃丸であったことに変わりはないはずよ」
「帰蝶。過去の幻に囚われていてはいけませんよ。過去は振り返るものじゃありません。ましてや引きずるなど以ての外です」
今まで不気味でふわふわしていた光秀の声が悲しそうな、寂しそうな声になった。今にも壊れてしまいそうに危うい。
「じゃあ、」と濃姫は壊さないようにそっと呟いた。
「何故、お前は私を帰蝶と呼ぶの?」
光秀は答えず、悲しそうに笑った。
尾張へ嫁いでから織田は勢力を増し、忙しい毎日が続いていた。
濃姫はその日、客間へと足を運んだ。
新しく織田家の家臣となる男が来たと聞いたからだ。
なにしろその男は濃姫の故郷と同じ地からやってきた者らしく、興味もある。名は明智光秀というらしい。
思えば嫁いで以来一度も故郷へ帰っていない。
置いてきてしまった弟分のような存在の彼はどうしているだろう。などと故郷を思い出しながら襖を開けた。
どきっ。と心臓が大きく音を鳴らした。
濃姫の目映ったのは真っ白な青年だった。
白く、男にしては細い体から彼女は青年から幽霊を連想した。
そこからわっと故郷の思い出が一気によみがえり、あの少年も白だった。と考えた。
「お久しぶりです。帰蝶」
どきっ。とまた心臓が鳴った。
「お前・・・桃丸?」
にこりと青年は笑った。
「今は明智の名を継ぎ、明智光秀と名乗っています」
「お前が・・・」
濃姫は困惑した。昔の彼とは全く雰囲気が違うからだ。
昔の彼はもっとおどおどとしていて頼りなく、自分の後ろに隠れてばかりで幼く、可愛らしかった。
それがどうだろう。不敵な笑みを浮かべ、どこか近寄りがたい不気味な青年になっている。
「お変わりありませんか?」
低く落ち着いた声。あぁ。いつから彼は変わってしまったのだろう。
困惑していた濃姫は何とか「えぇ」とだけ答えた。
「帰蝶。約束、覚えておいでですか?」
濃姫はしばらく考えてから思い出した。
それは美濃の地での、帰蝶としての最後の思い出。
『うつけに嫁いでも、後悔しないと約束してください』
「えぇ。大丈夫。後悔などしていないわ」
その言葉には一欠けらの嘘もなかった。
しかし光秀は小首を傾げ「本当に?」と言って哂った。
「貴女は確かに後悔はしていない。しかし、幸せ、でもないでしょう?」
言い返そうとして吸い込んだ息は何も言葉にならなかった。
「あ」と喘いで「戦乱の世に幸せなどあるものか」と、やっと言い返した。
光秀は一度にたりと哂うと「それもそうですね」と言った。
目の前の青年のあまりの変化に濃姫は
「本当に桃丸?」と、もう一度尋ねた。
困ったような小ばかにしたような表情で
「明智光秀です」と答える。
「桃丸だったのでしょう?」
少し声を大きくする。
「桃丸なんてもういませんよ」
「それでもお前の幼名は桃丸なのでしょう!? 約束を確かめたいのは桃丸でしょう!?」
「帰蝶」
ポン。と濃姫の肩に骨ばった手が置かれる。
取り乱していた濃姫はそれで少し落ち着きを取り戻した。
「帰蝶。桃丸なんていませんよ。私は私。明智光秀です。約束を確かめたかったのは桃丸ですが、彼は確かめる前に消えました。
私はその意志を引継ぎ、代わりに確かめただけです」
「分からないわ。それでもお前が桃丸であったことに変わりはないはずよ」
「帰蝶。過去の幻に囚われていてはいけませんよ。過去は振り返るものじゃありません。ましてや引きずるなど以ての外です」
今まで不気味でふわふわしていた光秀の声が悲しそうな、寂しそうな声になった。今にも壊れてしまいそうに危うい。
「じゃあ、」と濃姫は壊さないようにそっと呟いた。
「何故、お前は私を帰蝶と呼ぶの?」
光秀は答えず、悲しそうに笑った。